人生につまずいた時や、自分ではどうにもならない問題に突き当たった時など、立ち止まって、次のような問いを抱いたことはありませんか?運命は変えられる か、物事はどうしたら正しく認識できるか、他者や事物は存在するか…等々。宗教なら信仰心を抱くことによって問題を受け入れ、文学なら表現をとおして問題 から沸き起こる情念を味わうという特徴があります。しかし、哲学は、信仰心や情念によってではなく、思考によって問題を根本から考えるところに特徴があり ます。
哲学と社会は密接に関連しています。例えば、人間の思考は、西洋の16,17世紀以降の科学の発展や現実の社会生活の変化にともなって、大 きく変化してきました。西洋哲学の流れは、そうした思考の変化を明確な仕方で示しています。このことから、哲学は、科学や社会によって規定されるという見 方ができます。しかし、逆に、デカルトをはじめこの時代の哲学は、科学が真理であることを保証するよう、自らの学問内部で、限りなく真理に近づこうとして もいます。つまり、論理的な順序からすれば、哲学があって、はじめて科学の真理性が保証されると見ることもできます。したがって、科学および社会と、哲学 のどちらが先にあるかと問うならば、その答えは、時間の順序に注目するか、それとも論理の順序に注目するかによって変わります。人は、哲学をとおして、他 の科学や社会の変化を、理論面で支えると見ることもできるのです。
では、学問として哲学を学ぶことは、何をすることなのでしょうか。私たち個人が頭の中で考えることは、実は既に誰かが考えたことかもしれません。現代の哲 学者や、歴史上の哲学者について学ぶことは、彼らの思考をとおして、私たちの思考の独自性や非独自性および限界を知ることにつながります。
大学では、次の2つのことが必要とされています。1つは、先行研究(対象となる哲学者について、他の研究者が既に論じた範囲を知ること)、もう1つは、自身の視点です。私は、これらの両方がなければ、論文を書けないことを、他の研究者から学んでいる、今日この頃です。
浮穴先生
