「語の意味とは何か」

投稿者: | 2011 年 11 月 8 日

 みなさん、「粉黛」とはどのような意味でしょうか。広辞苑などで調べてみればわかると思いますが、「粉黛(ふんたい)」という語の意味は、「白粉(おしろい)とまゆずみ」であり、転じて、「化粧」を意味したりもするそうです。それでは、「白粉」という語はどのような意味でしょうか。白粉を使用している人にとっては広辞苑を引くまでもないかもしれませんが、念のため調べてみると、「顔や首筋などにつけて肌を色白に美しく見せるための化粧品」とあります。
 さて、粉黛などのなじみの薄い語でなくても、わたしたちは、ある語の意味をどのようにして知ることができるでしょうか。「白粉」という語の意味を知るためには、先にも例で示したように、「顔や首筋などにつけて肌を色白に美しく見せるための化粧品」という説明を調べたり聞いたりすることができます。他方、実際にひとつの白粉を指し示して、「白粉」という語の意味を知ることもできるでしょう。言い換えれば、語の意味を知るためには、第一に、「白粉とは化粧品であり、顔や首筋などにつけるものであり、肌を色白に美しく見せるためのものであり、…」というように、その語に共通の性質を挙げていく仕方と、第二に、その語が意味しているものを指し示すという仕方があるということです。論理学では、こうした二つの意味について、前者を語の「内包」(connotation, intension)、後者を語の「外延」(denotation, extension)として区別します。
 たしかに、「白粉」や「まゆずみ」のように何らかの指示物を特定できる名詞ならば、その語の意味を説明する仕方を二つに区別することは比較的容易に思えるかもしれません。しかし、「化粧」のような語ならばどうでしょうか。これもまた広辞苑で調べてみると、代表的な意味は、「紅や白粉などを使って、顔を美しく見えるようにすること」とあります。すなわち、口紅や白粉などの実際の指示物を用いてできあがった何らかの状態であると言えます。このような状態について、わたしたちは何かを指示することができるでしょうか。つまり、これが「化粧」であると指示できるのでしょうか。
 「化粧とは何か」という問題だけでなく(問題と呼べるかわかりませんが)、「思考とは何か」「知識とは何か」「人生とは何か」などのような問題は、これまで哲学の中で伝統的な問題とされ、多くの哲学者が格闘してきました。この見解に対して、オーストリア生まれで20世紀前半から中頃にかけて活躍した哲学者、ウィトゲンシュタインは『青色本』(The Blue Book)の中でつぎのように述べています。すなわち、こうした混乱の大きな源泉の一つは、「名詞によって、わたしたちはそれに対応するものを探したくなる」ということです。言い換えれば、「思考」「知識」「人生」といった、指示物の存在しない諸々の語について、わたしたちはどうしても何かを指し示すようにして説明したくなるということです。それでは、ウィトゲンシュタインに従えば、わたしたちは語の意味をどのように知るのでしょうか。ウィトゲンシュタインはつぎのように答えます。「その語の使われ方を見よ」と。たとえば、「粉黛」「化粧」などの語の意味を知るには、「粉黛を取ってください」(聞いたことはありませんが)、「今日は、化粧していないんですね」などの具体的なコンテクストの中でのそうした語の使われ方を通して意味を知ってゆくことになります。したがって、ウィトゲンシュタインに従えば、「思考」なども含めたあらゆる語に関して、それが指し示すものを探すような外延的意味規定ではなく、わたしたちがそうした語を実際にどのように用いているのかを考察しなければなりません。
 これらを踏まえると、語の意味を覚える際、とりわけ、外国語の語(英単語など)を覚える際の実用的なあり方が見えてくるでしょう。たとえば、英語で「balance」という語には、”She lost her balance.”(彼女はバランスを崩した。)などの使い方の他に、”Please send me the balance of the bill.”(請求書の残高額を送ってください。)といった使い方もあります。それゆえ、ある一つの語に対して一つの意味を与えるのではなく、その語の使われ方を見て文全体で意味を把握することは、言語の実情に則していると言えるでしょう。いっそう厳密に言えば、ウィトゲンシュタインは、語の意味が決まるのは文からだけでなく、さらにコンテクストを含めたその言語全体からであると述べています。ですから、「粉黛」「balance」のようなある一つの語の意味を知るためであっても、わたしたちはその語が含まれる言語全体からその語の意味を確定しなければなりません。題名でもある「語の意味とは何か」とは、『青色本』の冒頭にある一文です。ある語を知ろうとするとき、わたしたちはすでに哲学探究の一歩手前まで踏み込んでいるのです。

大喜先生